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第03話 災厄の娘

Author: あおはな
last update publish date: 2026-06-11 01:08:14

 大神官ベルンハルトが大広間の中央へ進み出ると、誰もが息を潜めた。

 白い法衣は、床に届くほど長い。

 胸元には神殿の紋章をかたどった銀の飾りが下がり、蝋燭の光を静かに返している。

 痩せた顔立ち。

 整えられた白髪。

 穏やかな笑み。

 その姿だけを見れば、長年にわたって王国を支えてきた敬虔な聖職者に見えた。

 だからこそ、人々は彼の言葉を疑わない。

「皆様も、すでにご存じのことでしょう」

 ベルンハルトは、広間全体へ語りかけるようにゆっくりと言った。

「近頃、魔物の森の周辺では異変が続いております」

 それを聞いて、ざわめきが広がる。

 先ほどまで囁かれていた話題が、大神官の口から改めて語られていく。

「街道では、商人の馬車が襲われました。北部の農村では、多くの家畜が姿を消しております」

 静かな声で、彼は告げる。

 同時に誰かが不安そうに息を呑む。

「魔石鉱山では、これまでにない規模の魔力暴走が起こりました」

 広間の空気が、少しずつ重くなっていく。

 並べられた言葉は、どれもセレナが先ほど耳にしたものだった。

 けれど、大神官の口から語られると、噂話とは違う重みを持つ。

「これは、一時的な異変ではありません」

 ベルンハルトは、そう続けた。

「森の魔力そのものが乱れているのです」

 広間のあちこちで、顔を見合わせる者がいた。

「そんな……」

「では、これからさらに被害が広がると?」

「王都まで魔物が押し寄せることもあるのですか?」

 声を潜めていても、不安は隠しきれない。

 ベルンハルトは、彼らの動揺を静かに見守っていた。

 まるで、あえて恐怖が広がるのを待っているように。

 セレナは壁際で立ったまま、灰色の布の端をそっと握りしめた。

 布の内側へ押し込めた銀髪が、首筋へ触れている。

 ひやりとした感触が、妙に鮮明だった。

「――けれど、ご安心ください」

 ベルンハルトの声が、再び広間へ響く。

「神殿には、古くから伝わる記録がございます」

 その言葉に、人々は一斉に大神官へ視線を向けた。

 不安に沈んだ者が救いを求めるように。

「森の災厄が目覚める時、必ず前触れが現れる」

 ベルンハルトは、懐から一冊の古びた書物を取り出した。

 濃い革の表紙には細かな傷があり、長い年月を経てきたことが分かる。

「王国の古い伝承によれば、その前触れとは、銀髪を持つ娘の出現です」

 その瞬間、広間の空気が変わった。

 誰かが小さく息を呑む。

 そして、視線が集まった。

 まるで示し合わせたかのように、数え切れないほどの目がセレナへ向けられ――セレナは逃げなかった。

 そもそも、逃げる場所など、最初からなかった。

 背後には壁があり、目の前には、大勢の貴族がいる。

 その間に立ち、セレナはただ視線を伏せた。

「やはり……銀髪の娘が災厄を呼ぶという話は、本当だったのか」

「公爵家に生まれたという、あの方のことでは?」

「まさか、王宮へまで災いを持ち込んでいたなんて」

 囁きは、次第に広がっていく。

 一つひとつは小さな声なのに、重なり合うと逃げ場のない波のようだった。

 セレナの耳には、昔から聞き慣れた言葉が蘇っていた。

 ――お前のせいだ。

 ――お前の髪が不吉だからだ。

 ――お前が生まれたせいで、皆が苦しむ。

 ――お前さえいなければ。

 幼い頃、屋敷の離れで風邪をひいた使用人がいた。

 熱が出たのは季節の変わり目だったからかもしれない。

 それでも、母はセレナを睨んだ。

「あなたが、また何か悪いものを呼び込んだのでしょう」

 庭木が枯れたときもそうだった。

 厩舎の馬が怪我をしたときも。

 屋敷の屋根が嵐で壊れたときも。

 何かが起これば、銀髪の娘のせいにされた。

 最初の頃は、違うと言いたかった。

 自分は何もしていない。

 誰かを困らせたいわけではない。

 悪いことなど、何も望んでいない。

 けれど、何度言っても誰も聞かなかった。

 やがて、セレナは反論することをやめた。

 もしかすると、本当に自分のせいなのかもしれない。

 そう思うほうが、楽だった。

 自分さえ我慢すればよいのだと考えれば、誰かを責めずに済む。

「大神官様」

 貴族の一人が、耐えきれないように声を上げた。

「では、どうすればよいのですか」

 ベルンハルトは、ゆっくりと彼へ顔を向けた。

「古い記録には、こう記されております」

 穏やかな声で、話を続けた。

「森から生まれた災厄は、森へ返さなければならない」

 広間が静まり返る。

「銀髪の娘を、森へ返すのです」

 意味を理解するまでに、ほんの少し時間がかかった。

 誰もすぐには言葉を発しなかった。

 けれど、次第にざわめきが広がっていく。

「森へ返す、というのは……」

「まさか、魔物の森へ?」

「ですが、それでは……」

 声を上げた者たちは、途中で口を閉ざした。

 魔物の森へ一人で入れば、どうなるか。

 誰もが分かっている。

 剣を持った騎士でさえ、無事に戻れるとは限らない場所だ。

 まして、セレナは戦う術を持たない。

 生きて帰れるはずがない。

 それでも、誰も明確に反対しなかった。

 ベルンハルトは、困惑する人々へ慈しむような視線を向けた。

「これは罰ではありません」

 その声は、あまりにも優しかった。

「王国を救うための、尊い役目です」

 尊い役目――その言葉が、胸の奥へ沈んでいく。

「一人の犠牲によって、多くの命が救われるのですから……苦渋の決断ではございます。けれど、王国を守るためには、避けて通れぬ道なのです」

 セレナは、静かに息を吐いた。

 不思議なほど、驚きはなかった。

 父が言った言葉を思い出す。

 ――今夜、お前の処遇が決まる。

 最初から、こうなることは決まっていたのだろう。

 夜会へ連れてこられたのも、話し合いのためではない。

 大勢の貴族の前で、セレナを差し出すため。

 誰もが納得できる形で、銀髪の娘を切り捨てるため。

「そんな……」

 震える声――リリアーヌだった。

 アルベルトの隣に立っていた妹が、両手で口元を覆っている。

 青い瞳には涙が浮かび、頬を一筋伝っていた。

 その姿を見て、周囲の貴族たちが同情するような視線を向ける。

「お姉様が森へ行かれるなんて……そんなこと、あんまりですわ」

 細い指が、セレナの手を取る。

 その手は冷たかった。

「リリアーヌ様は、本当にお優しい」

「お姉様のことを、こんなにも心配なさって」

 近くにいた令嬢たちが囁き合う。

 セレナは、妹の顔を見つめた。

 綺麗に整えられた金色の髪。

 涙に濡れた青い瞳。

 震える唇――どこから見ても、姉を案じる優しい妹にしか見えない。

 けれど、その指先はセレナの手を強く握りしめていた。

 まるで、逃げることを許さないように。

「お姉様」

 リリアーヌは、涙を浮かべたまま微笑んだ。

「怖いですわよね」

「……」

「お一人で森へ向かわれるなんて、どれほどお辛いことでしょう」

 セレナは何も答えなかった。

「けれど」

 リリアーヌは、ほんの少し声を強めた。

「お姉様なら、国民のために耐えてくださいますわよね?」

 その言葉に、周囲の視線が集まる。

 断れるはずがなかった。

 ここで嫌だと言えば、どうなるのだろう。

 国民の命より、自分の命が大切なのか。

 公爵家の娘でありながら、責任を果たさないのか。

 王太子の婚約者でありながら、国を見捨てるのか。

 きっと、そう言われる。

 リリアーヌは、そのことを分かっている。

 だからこそ、優しく問いかける。

 まるで、選択肢を与えているように。

 本当は、最初から答えは一つしかないのに。

 セレナは、灰色の布の内側で目を伏せた。

 幼い頃から、何度も同じことを繰り返してきた。

 自分が我慢すれば、皆が安心する。

 自分が耐えれば、誰かが困らずに済む。

 自分一人が消えれば、すべてが丸く収まる。

「……そうね」

 小さな声が、口からこぼれた。

「国民の皆様が救われるのであれば……私は、森へ参ります」

 広間のあちこちから、安堵したような息が漏れた。

 誰かが、立派だと呟いた。

「さすが、公爵家のご令嬢だ」

「王国のために、ご自身を犠牲になさるとは」

「尊いお心ですわ」

 称賛の言葉が飛び交う。

 けれど、誰一人としてセレナの目を見ようとはしなかった。

 セレナがどんな気持ちで頷いたのか。

 本当に望んでいるのか。

 怖くはないのか。

 それを尋ねる者はいない。

 リリアーヌだけが、涙を拭いながらセレナの手を握っていた。

「ありがとうございます、お姉様!」

 その声音には、隠しきれない安堵が滲んでいた。

 セレナは、何も言わなかった。

 胸の奥に、冷たいものが広がっていく。

 恐怖なのか。

 悲しみなのか。

 それとも、諦めなのか。

 もう、自分でも分からなかった。

 ただ一つだけ分かることがある。

 誰も、自分を止めてはくれない。

 その時、広間の中央で椅子が引かれる音がした。

 王太子アルベルトが、ゆっくりと立ち上がる。

 青い瞳が、まっすぐセレナへ向けられた。

「セレナ・エヴァレット」

 広間が再び静まり返る。

 アルベルトは、冷静な声で告げた。

「お前との婚約を、ここに破棄する」

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