LOGIN「皆様も、すでにご存じのことでしょう」
ベルンハルトは、広間全体へ語りかけるようにゆっくりと言った。
「近頃、魔物の森の周辺では異変が続いております」
それを聞いて、ざわめきが広がる。
先ほどまで囁かれていた話題が、大神官の口から改めて語られていく。「街道では、商人の馬車が襲われました。北部の農村では、多くの家畜が姿を消しております」
静かな声で、彼は告げる。
同時に誰かが不安そうに息を呑む。「魔石鉱山では、これまでにない規模の魔力暴走が起こりました」
広間の空気が、少しずつ重くなっていく。
並べられた言葉は、どれもセレナが先ほど耳にしたものだった。 けれど、大神官の口から語られると、噂話とは違う重みを持つ。「これは、一時的な異変ではありません」
ベルンハルトは、そう続けた。
「森の魔力そのものが乱れているのです」
広間のあちこちで、顔を見合わせる者がいた。
「そんな……」
「では、これからさらに被害が広がると?」 「王都まで魔物が押し寄せることもあるのですか?」声を潜めていても、不安は隠しきれない。
ベルンハルトは、彼らの動揺を静かに見守っていた。 まるで、あえて恐怖が広がるのを待っているように。 セレナは壁際で立ったまま、灰色の布の端をそっと握りしめた。 布の内側へ押し込めた銀髪が、首筋へ触れている。 ひやりとした感触が、妙に鮮明だった。「――けれど、ご安心ください」
ベルンハルトの声が、再び広間へ響く。
「神殿には、古くから伝わる記録がございます」
その言葉に、人々は一斉に大神官へ視線を向けた。
不安に沈んだ者が救いを求めるように。「森の災厄が目覚める時、必ず前触れが現れる」
ベルンハルトは、懐から一冊の古びた書物を取り出した。
濃い革の表紙には細かな傷があり、長い年月を経てきたことが分かる。「王国の古い伝承によれば、その前触れとは、銀髪を持つ娘の出現です」
その瞬間、広間の空気が変わった。
誰かが小さく息を呑む。 そして、視線が集まった。 まるで示し合わせたかのように、数え切れないほどの目がセレナへ向けられ――セレナは逃げなかった。 そもそも、逃げる場所など、最初からなかった。 背後には壁があり、目の前には、大勢の貴族がいる。 その間に立ち、セレナはただ視線を伏せた。「やはり……銀髪の娘が災厄を呼ぶという話は、本当だったのか」
「公爵家に生まれたという、あの方のことでは?」 「まさか、王宮へまで災いを持ち込んでいたなんて」囁きは、次第に広がっていく。
一つひとつは小さな声なのに、重なり合うと逃げ場のない波のようだった。 セレナの耳には、昔から聞き慣れた言葉が蘇っていた。――お前のせいだ。
――お前の髪が不吉だからだ。 ――お前が生まれたせいで、皆が苦しむ。 ――お前さえいなければ。幼い頃、屋敷の離れで風邪をひいた使用人がいた。
熱が出たのは季節の変わり目だったからかもしれない。 それでも、母はセレナを睨んだ。「あなたが、また何か悪いものを呼び込んだのでしょう」
庭木が枯れたときもそうだった。
厩舎の馬が怪我をしたときも。 屋敷の屋根が嵐で壊れたときも。 何かが起これば、銀髪の娘のせいにされた。 最初の頃は、違うと言いたかった。 自分は何もしていない。 誰かを困らせたいわけではない。 悪いことなど、何も望んでいない。 けれど、何度言っても誰も聞かなかった。 やがて、セレナは反論することをやめた。 もしかすると、本当に自分のせいなのかもしれない。 そう思うほうが、楽だった。 自分さえ我慢すればよいのだと考えれば、誰かを責めずに済む。「大神官様」
貴族の一人が、耐えきれないように声を上げた。
「では、どうすればよいのですか」
ベルンハルトは、ゆっくりと彼へ顔を向けた。
「古い記録には、こう記されております」
穏やかな声で、話を続けた。
「森から生まれた災厄は、森へ返さなければならない」
広間が静まり返る。
「銀髪の娘を、森へ返すのです」
意味を理解するまでに、ほんの少し時間がかかった。
誰もすぐには言葉を発しなかった。 けれど、次第にざわめきが広がっていく。「森へ返す、というのは……」
「まさか、魔物の森へ?」 「ですが、それでは……」声を上げた者たちは、途中で口を閉ざした。
魔物の森へ一人で入れば、どうなるか。 誰もが分かっている。 剣を持った騎士でさえ、無事に戻れるとは限らない場所だ。 まして、セレナは戦う術を持たない。 生きて帰れるはずがない。 それでも、誰も明確に反対しなかった。 ベルンハルトは、困惑する人々へ慈しむような視線を向けた。「これは罰ではありません」
その声は、あまりにも優しかった。
「王国を救うための、尊い役目です」
尊い役目――その言葉が、胸の奥へ沈んでいく。
「一人の犠牲によって、多くの命が救われるのですから……苦渋の決断ではございます。けれど、王国を守るためには、避けて通れぬ道なのです」
セレナは、静かに息を吐いた。
不思議なほど、驚きはなかった。 父が言った言葉を思い出す。――今夜、お前の処遇が決まる。
最初から、こうなることは決まっていたのだろう。
夜会へ連れてこられたのも、話し合いのためではない。 大勢の貴族の前で、セレナを差し出すため。 誰もが納得できる形で、銀髪の娘を切り捨てるため。「そんな……」
震える声――リリアーヌだった。
アルベルトの隣に立っていた妹が、両手で口元を覆っている。 青い瞳には涙が浮かび、頬を一筋伝っていた。 その姿を見て、周囲の貴族たちが同情するような視線を向ける。「お姉様が森へ行かれるなんて……そんなこと、あんまりですわ」
細い指が、セレナの手を取る。
その手は冷たかった。「リリアーヌ様は、本当にお優しい」
「お姉様のことを、こんなにも心配なさって」近くにいた令嬢たちが囁き合う。
セレナは、妹の顔を見つめた。 綺麗に整えられた金色の髪。 涙に濡れた青い瞳。 震える唇――どこから見ても、姉を案じる優しい妹にしか見えない。 けれど、その指先はセレナの手を強く握りしめていた。 まるで、逃げることを許さないように。「お姉様」
リリアーヌは、涙を浮かべたまま微笑んだ。
「怖いですわよね」
「……」 「お一人で森へ向かわれるなんて、どれほどお辛いことでしょう」セレナは何も答えなかった。
「けれど」
リリアーヌは、ほんの少し声を強めた。
「お姉様なら、国民のために耐えてくださいますわよね?」
その言葉に、周囲の視線が集まる。
断れるはずがなかった。 ここで嫌だと言えば、どうなるのだろう。 国民の命より、自分の命が大切なのか。 公爵家の娘でありながら、責任を果たさないのか。 王太子の婚約者でありながら、国を見捨てるのか。 きっと、そう言われる。 リリアーヌは、そのことを分かっている。 だからこそ、優しく問いかける。 まるで、選択肢を与えているように。 本当は、最初から答えは一つしかないのに。 セレナは、灰色の布の内側で目を伏せた。 幼い頃から、何度も同じことを繰り返してきた。 自分が我慢すれば、皆が安心する。 自分が耐えれば、誰かが困らずに済む。 自分一人が消えれば、すべてが丸く収まる。「……そうね」
小さな声が、口からこぼれた。
「国民の皆様が救われるのであれば……私は、森へ参ります」
広間のあちこちから、安堵したような息が漏れた。
誰かが、立派だと呟いた。「さすが、公爵家のご令嬢だ」
「王国のために、ご自身を犠牲になさるとは」 「尊いお心ですわ」称賛の言葉が飛び交う。
けれど、誰一人としてセレナの目を見ようとはしなかった。 セレナがどんな気持ちで頷いたのか。 本当に望んでいるのか。 怖くはないのか。 それを尋ねる者はいない。 リリアーヌだけが、涙を拭いながらセレナの手を握っていた。「ありがとうございます、お姉様!」
その声音には、隠しきれない安堵が滲んでいた。
セレナは、何も言わなかった。 胸の奥に、冷たいものが広がっていく。 恐怖なのか。 悲しみなのか。 それとも、諦めなのか。 もう、自分でも分からなかった。 ただ一つだけ分かることがある。 誰も、自分を止めてはくれない。その時、広間の中央で椅子が引かれる音がした。
王太子アルベルトが、ゆっくりと立ち上がる。 青い瞳が、まっすぐセレナへ向けられた。「セレナ・エヴァレット」
広間が再び静まり返る。
アルベルトは、冷静な声で告げた。「お前との婚約を、ここに破棄する」
大神官ベルンハルトが大広間の中央へ進み出ると、誰もが息を潜めた。 白い法衣は、床に届くほど長い。 胸元には神殿の紋章をかたどった銀の飾りが下がり、蝋燭の光を静かに返している。 痩せた顔立ち。 整えられた白髪。 穏やかな笑み。 その姿だけを見れば、長年にわたって王国を支えてきた敬虔な聖職者に見えた。 だからこそ、人々は彼の言葉を疑わない。「皆様も、すでにご存じのことでしょう」 ベルンハルトは、広間全体へ語りかけるようにゆっくりと言った。「近頃、魔物の森の周辺では異変が続いております」 それを聞いて、ざわめきが広がる。 先ほどまで囁かれていた話題が、大神官の口から改めて語られていく。「街道では、商人の馬車が襲われました。北部の農村では、多くの家畜が姿を消しております」 静かな声で、彼は告げる。 同時に誰かが不安そうに息を呑む。「魔石鉱山では、これまでにない規模の魔力暴走が起こりました」 広間の空気が、少しずつ重くなっていく。 並べられた言葉は、どれもセレナが先ほど耳にしたものだった。 けれど、大神官の口から語られると、噂話とは違う重みを持つ。「これは、一時的な異変ではありません」 ベルンハルトは、そう続けた。「森の魔力そのものが乱れているのです」 広間のあちこちで、顔を見合わせる者がいた。「そんな……」「では、これからさらに被害が広がると?」「王都まで魔物が押し寄せることもあるのですか?」 声を潜めていても、不安は隠しきれない。 ベルンハルトは、彼らの動揺を静かに見守っていた。 まるで、あえて恐怖が広がるのを待っているように。 セレナは壁際で立ったまま、灰色の布の端をそっと握りしめた。 布の内側へ押し込めた銀髪が、首筋へ触れている。 ひやりとした感触が、妙に鮮明だった。「――けれど、ご安心ください」 ベルンハルトの声が、再び広間へ響く。「神殿には、古くから伝わる記録がございます」 その言葉に、人々は一斉に大神官へ視線を向けた。 不安に沈んだ者が救いを求めるように。「森の災厄が目覚める時、必ず前触れが現れる」 ベルンハルトは、懐から一冊の古びた書物を取り出した。 濃い革の表紙には細かな傷があり、長い年月を経てきたことが分かる。「王国の古い伝承によれば、その前触れとは、銀髪を持つ娘の出現で
大広間へ足を踏み入れた瞬間、セレナは肌に突き刺さるような視線を感じた。 王宮の夜会は、いつも華やかだった。 高い天井には、無数の蝋燭を灯した大きなシャンデリアが吊るされている。 磨き上げられた床には光が反射し、楽団の奏でる優雅な旋律が広間全体を満たしていた。 色鮮やかなドレス。 宝石を散りばめた髪飾り。 上等な酒を手に談笑する貴族たち。 ――誰もが笑っている。 けれど、セレナが姿を見せた途端、その笑い声はほんの少しだけ揺らいだ。「あれが……」「ええ。エヴァレット公爵家の」「まさか、王宮へ連れてくるなんて」 聞こえないふりをすることには、慣れていた。 セレナは灰色の布がずれていないことを確かめながら、父と母の後ろを歩いた。 少しでも銀髪がこぼれれば、誰かが不安そうな顔をする。 あるいは、あからさまに距離を取る。 それを避けるため、背筋を伸ばし、目立たないように歩く。 ――不思議なものだった。 目立つなと言われ続けてきたのに、何もしなくても視線だけは集まる。 忌むべき銀髪を持つ娘――その噂だけで、セレナはどこにいても人々の意識を引きつけてしまう。「――セレナ」 名前を呼ばれ、セレナは顔を上げた。 声をかけてきたのは父親のオズワルドだった。 広間の中央へ向かうことなく、壁際の一角を顎で示している。「そこで控えていなさい」「はい、お父様」 セレナは素直に頷いた。 王太子の婚約者であるなら、本来は彼の近くに立つべきなのだろう。 けれど、それを口にするつもりはなかった。 以前、一度だけアルベルトの隣へ近づこうとしたことがある。 王家主催の晩餐会で、婚約者として挨拶をする必要があると思ったからだ。 その時、アルベルトは露骨に顔をしかめた。「君は少し離れていてくれ」 声を荒らげたわけではない。 けれど、周囲に聞こえるには十分な声量だった。「その姿では、場の空気を暗くするだろう?」 王太子のその言葉を聞いて、誰かが小さく笑った。 その笑い声をセレナは今でも覚えている。 以来、自分からアルベルトの隣へ向かうことはなくなった。 今夜も同じだった――広間の中央には、金髪に青い瞳を持つ青年が立っている。 ――王太子アルベルト・ラウエンシュタイン。 整った顔立ちに柔らかな微笑みを浮かべ、周囲の貴族たちと言葉を
「その髪が見えないようにしなさい」 冷たい声とともに、灰色の布が頭から被せられた。 薄暗い控室の鏡に映る自分の姿を、セレナは黙って見つめた。 彼女の腰まで届く銀髪は、布の内側へ押し込められている。 何本かこぼれ落ちた髪を、侍女が慌てて拾い上げ、見えないように隠していく――まるで、人目に触れてはならない汚らわしいものを扱うような手つきだった。「今夜は、リリアーヌの晴れの日なのだから」 鏡越しに母親であるマリアンヌの姿が見えた。 彼女は金色の髪を美しく結い上げ、淡い水色のドレスをまとっている。 社交界で称賛される公爵夫人らしく、その姿には隙がない。 ――けれど、母はセレナの名前を呼ばなかった。 幼い頃から、ずっとそうだった。 実の子だと言うのに、彼女の名を呼ぶことなど一度も――”セレナ”という名を母の口から聞いた記憶はほとんどない。「……申し訳ございません、お母様」 セレナが小さく答えると、マリアンヌはわずかに眉を寄せた。「謝罪は求めていませんから余計なことをしないで」「……はい」 反論しようとは思わなかった。 何を言っても、母をさらに不快にさせるだけだと昔からもう知っている。 慣れた事なのだ。 銀髪で生まれたことは、セレナ自身にもどうすることもできない。 それでも、幼い頃から何度も責められてきた。 ――お前の髪は不吉だ。 ――屋敷の外へ出てはならない。 ――人前に姿を見せてはならない。 ――誰かに見られれば、公爵家の恥になる。 いつの間にかセレナは、謝ることだけが上手になっていた。「お母様、こちらの髪飾りはいかがでしょう?」 明るい声が、控室の空気を変えた。 振り向かなくても、誰が入ってきたのか分かる――妹のリリアーヌだった。 淡い桃色のドレスは、幾重にも重ねられた薄布が歩くたびに柔らかく揺れ、母親と同じ金色の髪には、小粒の真珠と宝石を散らした髪飾りが添えられていた。 王都で今もっとも評判の仕立屋に作らせたものだと、使用人たちが話していた。「まあ、よく似合っているわ」 先ほどまで冷え切っていた母の表情が、春の日差しを受けたように和らいだ。「本当に綺麗よリリアーヌ。今夜はきっと、皆があなたに見惚れるでしょうね」「そんな、お母様ったら」 リリアーヌは恥ずかしそうに頬を染めた。 ただ、その様子を、セレ







